オッサンの得意技

人は誰も『貯○池』を持っている

「腹が立つ」と「怒る」の間の『堪忍袋』のようなものがそれであり、(今現在の己の能力や状況では) 解の出ない問題に直面したとき、いったん棚上げにする『棚』がそれである。電気回路における『コンデンサ』のような『貯○池』は、人間が社会生活を営む上で、欠くべからざる機能であると言える。

何を「貯める」のか…

それは、怒りであり、虚無であり、無力な『すべての問い』である。つまり、理解不能(もしくは、理解なんぞしてやるもんか…)なこと。(今の自分の力では)どうにもらないこと。そうした問題を目の当たりにしたときには、人は、退避場所にそれらを送る。

どのくらい「貯められる」のか…

『オトナ』であるほど、『デキタ人間』であるほど、許容量 --- つまり貯め込むことのできる量 --- は、より大きいとされる。なぜなら、それらの問題の大半は、『我慢』を強いる。そして、一般に、『オトナ』は『子供』よりも余計に『我慢』できるはずであるからだ。たしかにそのはずである。自らを振り返るに…子供時代と比べれば、すこしは我慢に長けたような気はする。( 百貨店の玩具売り場で、「ダメ!」と言われてこの世の終わりのようにショックを受けた子供時代の僕よりは幾分マシである…という程度には、)今年 51歳になる僕は我慢強い。理由は単純である。オッサンが、公衆の面前で駄々をこねるのは、見ていられないほどイタイ光景であるからだ。オッサン本人以外には誰も気にしないが…オッサンが持つ能力は、この奇妙な自意識だけではない。もうひとつの、オッサンの最特技は『鈍さ』である。『したたかさ』と言っても良い。換言すれば、オッサンは不感症である。長い人生の間に、敏感な部分を他人にいじくりまわされ、それ以上に自分でいじくりまわしたあげく、押しも押されもせぬ立派な不感症になったのだ。とにもかくにも、斯くして、くだらない自意識を持つ、不感症のオッサンが誕生したわけである。

我慢の限界

しかし、我慢の『限界』は厳然と存在する。オッサンにだって…である。理由は、そもそも我慢は身体に悪いから…だ。身体に悪いことは、一定の許容量を超えると、身体が拒否するのである。脳みその最前線から、理解不能・回答不能な問題は、いったん『退避場所』に送られるが、退避場所の許容量を超えると、身体が拒否する。

身体が拒否したあげく、それらはどこへ行くのか

それらは、トコロテンのように押し出されていく。押し出されていく先は、忘却の彼方であったりもするが、必要に応じて、脳みその最前線に押し戻される。オッサンは、このあたりの仕分けが得意である。

オッサンの得意技『忘却』と『反芻』

オッサンの最強の得意技は『忘却』なので、忘れる能力には何の問題も無い。しかしオッサンは、あえて忘れないで、再び対峙するべく、脳みその最前線にそれらの問題を押し戻すのだ。まるで、牛の反芻である。今の自分の能力では、答えの出ない問題に直面した場合、オッサンは、いったん退避場所たる『心の棚』にそれらの問題をいったん『棚上げ』にする。当事者のオッサン以外には、『逃避』と映るかも知れないがそうではない。オッサンは案外忙しい。その瞬間に、せねばならぬ仕事がある。早押しクイズのように押さねばならぬボタンがある。検証や再考が必要な問題は、いったん棚上げするが、あとでちゃんと棚から下ろして対峙するのだ。オッサンは、オッサン家のイタチとは違うのだ。やつらは、オッサンのことを
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としか思っていない『忘恩の徒』だが、オッサンは断じてそうではない。オッサンには、『反芻』という最強能力があるのだ。この『反芻機能』が壊滅しない限り、オッサンは無敵である。(;´Д`)はぁはぁ…

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