「体面」と「信用」

「体面」と「信用」この二つの関係を考えてみた。体面とは、世間体である。世間体って信用の根拠になるものなのかもしれない。少なくとも、「世間様に顔向けできないようなことはするな」と教えられて育った人は多いだろう。# 現実には、# 「世間様って誰と誰やねん!会員制やったら会員名DBみせんかい!」# という生き方になってしまっていることは、# ここでは問題としない。# 私は「自分のことを載せる心の棚」が頑丈なのだ。一方、信用とは、「積み重ねる」ものであり、「簡単に失う」ものであると教えられてきた。はたしてそうなのか?「積み重ねて作り上げ、失敗で簡単に失う」そんな属性が、「信用」のプライマリ・ディフィニションであっていいのか?信用とは、「心映えの見事さ」だと思う。少なくとも私が「信用がおける人間」と確信する人はみな、心映えが見事で、己に公正な人間である。「長くつきあって初めて分かる」という点では、確かに、積み重ねるものなのかもしれない。しかしそんなものは、相手の中に勝手に「積み重なる」ものであって、「積み重ねる」ものではないのではないだろうか?「簡単に失うもの」まさしく、その通りであろう。けれど、それは、「試練においての行動如何によって」という上の句をつけなければ正確ではない。「信用を失ってもおかしくないようなシチュエーション」が私が意味する「試練」の定義である。「失敗したときの行動」が信用を「得る」のか「失う」のかを決めるのだ。私が子供の頃は、体面と信用は同意であった。しかし、今、危機管理能力とやらが叫ばれる今、「失敗は起こる」のである。「体面」と「信用」のどちらかの選択を迫られるシチュエーションが必ず誰にもくるのだ。「失敗しないこと」もちろん大切にしたい。失敗しないように、必要な準備は怠りなくしたい。しかし、それでも失敗するのだ。人間は後悔するように作られているのだ。失敗ってのは、単に、「思うようにいかなかった」という「状況」を指している。過去にはさかのぼれない。今回失敗した「直接の原因」と「本質の原因」を己に糺すプロセスこそが「生きる力」なのだ。本質的に「己の性堕に起因する失敗」なら、「同じ失敗を重ねて生きていく」という道と「自らの性堕自体すら改める」という方法と、もうひとつ「性堕それ自体はあきらめて、行動の癖として、新たな癖をつける」という3つの選択肢を用意したい。失敗は、状況でありプロセスである。結論を指す言葉ではない。もっと言うなら、失敗というプロセスを通らないと、たどり着けない成功もたくさんある。「失敗」をごまかさないと「信用」がなくなるよ…てな考え方は改めなければならない。「体面を取り繕うために信用を捨てるまねをするな」そう自らに、そして子供たちに伝えなければならない。# 体面を対面と書き違えていて急いで修正したことは# 内緒にしておいてください。なんだか恥ずかしいから…# >カブを乗る予定もないのにホーチミンに行くO氏

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